「戸倉城」ってどんなお城なの?その規模や構造について…

 

東京都あきる野市戸倉にあった戸倉城(とくらじょう)は、室町時代から戦国時代初期にかけて戸倉山に築かれたとされる山城です。

 

 

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今日の早朝散歩は戸倉城‼️ 北条氏綱が築城したと言われています。 甲相駿三国同盟が終わり、武田氏と北条氏の戦いの場になりました。 武田勝頼は、沼津三枚橋城を拠点に戸倉城を攻撃しますが、やがて武田氏は滅びます。 豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、北条氏は韮山城、山中城に撤退していきました。 戸倉城からは、興国寺城、山中城が見渡せ、富士山をバックに覇権争いが行われていた地だという事が分かりました。🧐 #城 #城巡り #歴史 #戸倉城 #武田氏 #武田勝頼 #北条氏綱 #三度の飯より城が好き #キャスリング #japantrip

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本丸と、城の防御施設である曲輪(くるわ)を備えていることから、連郭式山城(れんかくしきやまじろ)に分類される城です。

 

戸倉山は標高434mの山で、山の周囲には秋川と盆掘川(ぼんぼりがわ)が流れ、また、それらの川の流れによって作られた、深い谷が三方を巡るような地形をしており、まさに天然の要塞といった感じになっています。

 

 

この山は東西2つの山頂があり、東側の山頂が城の中心である本丸で、西側の山頂は出丸(でまる)と呼ばれる曲輪になっています。

 

本丸や出丸への道中や周囲には堀や土塁などの施設があり、また、本丸の北側には湧き水を利用した井戸も造られました。

 

 

現在の戸倉山は登山道として整備されているので、実際に登ることができ、城は本丸跡と、出丸跡、井戸の跡、それに加えて、いくつかの土塁と空堀の跡が残っています。

 

室町時代初期に創建されたと言われる、光厳寺(こうごんじ)というお寺がある場所が登山道の入り口になります。

 

入り口から山頂まではそれほど距離があるわけではないのですが、傾斜が急な場所がいくつかあるので、登山の際は十分に注意して、決して無理をしないように登りましょう。

 

大体30~40分ほどで山頂に到着します。ちなみに、光厳寺の周辺が城主の居住地だったのではないかと言われています。

大石定久の隠居した城…この城の歴史について

 

この城は武蔵七党(むさししちとう)の一つである西党(にしとう)に属していた、小宮憲明(こみやのりあき)という人物によって築城され、しばらくは小宮氏が拠点にしていたと言われています。

 

1416年、武蔵国(むさしのくに「今の東京都、埼玉県、神奈川県の一部」)の守護大名であった上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)は、以前から対立していた鎌倉公方(かまくらくぼう「関東を支配していた足利氏」)の足利持氏(あしかがもちうじ)と、持氏の補佐をしていた関東管領職であった上杉憲基(うえすぎのりもと)に対して反乱を起こしました。

 

その際、武蔵国の武士たちもこの戦いに加わったのですが、小宮氏は禅秀の味方につきました。

 

禅秀は一時、鎌倉を掌握したのですが、室町幕府が介入したことにより敗北、鎌倉にて自害したためこの反乱は収まりました。

 

この戦いで小宮氏は衰退し、没落してしまいました。

 

 

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東京都あきる野市の戸倉城跡です。この城は小宮氏により築城され戦国時代には北条氏照の叔父の大石定久の居城でしたが豊臣秀吉の北条征伐の時に八王子城と共に落城したとされています。登山道が一部崩落してロッククライミング状態 …… (^^; #戸倉城址 #あきる野市 #東京都の城 #東京都 #戦国の城 #戦国の城 #大石定久の居城 #大石定久 #山城

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小宮氏が没落した後は関東管領上杉氏の家臣であった、大石氏が戸倉城の城主となりました。

 

しかし、北条氏が武蔵国で勢力を伸ばすようになると、大石氏は上杉氏の家臣から北条氏の家臣になりました。

 

その後、大石氏は東京都八王子市の滝山城(たきやまじょう)に拠点を移すのですが、1546年、当時の大石氏の当主であった大石定久(おおいしさだひさ)は、北条氏当主の北条氏康(ほうじょううじやす)に三男の氏照(うじてる)を強制的に婿入りさせられ、大石氏の実権を奪われてしまいました。

 

その際、定久が隠居の地に選んだのがこの城だったと言われています。

 

 

北条氏の支配下になった後の戸倉城は、西多摩郡にある檜原城(ひのはらじょう)とともに、甲斐国(かいのくに「今の山梨県」)の武田氏の侵攻に備えて、東京都八王子市にある八王子城(はちおうじじょう)の支城としての役割を担っていたのではないかと言われています。

 

ですが1590年、豊臣秀吉による小田原征伐によって北条氏が滅亡してしまうと、この城も廃城になってしまいました。

武蔵七党・小宮氏について

 

前述した武蔵七党とは、平安時代から室町時代にかけて、武蔵国を中心に下野国(しもつけのくに「今の栃木県」)、上野国(こうずけのくに「今の群馬県」)、相模国(さがみのくに「今の神奈川県」)などで勢力を伸ばしていた中小武士団で、横山党(よこやまとう)、猪俣党(いのまたとう)、児玉党(こだまとう)、村山党(むらやまとう)、野与党(のよとう)、丹党(たんとう)、西党(にしとう)の七党で構成されています。【史料によって多少の差異があり、七党ではなく、綴党(つづきとう)、私市党(きさいとう)を加えた、九党としている場合もあります。】

 

平安時代後期、平家打倒を掲げて挙兵した源頼朝に味方し、鎌倉幕府が開かれてからは御家人として幕府に仕えていました。

 

室町時代に入ると、武蔵国に残った武蔵七党系の氏族を中心として、一揆(いっき)という軍事的な連合を結成し、関東管領上杉氏や北条氏の配下になりました。

 

 

小宮氏の属していた西党は、日奉宗頼(ひまつりむねより)という人物が祖として起こったもので、今の東京都八王子市やあきる野市を基盤として発展し、一族は多摩川やその支流である、浅川や秋川などの流域に住んでいました。

 

小宮氏は12世紀後半ごろに起こったとされ、今の東京都あきる野市の秋川上流域を拠点とし、鎌倉幕府の御家人として仕え、地頭として勤めていました。

 

室町時代になると、周囲の氏族や豪族たちと白旗一揆(しらはたいっき)という軍事連合をつくり、鎌倉公方や関東管領などの権力者に仕え、戦が起こると彼らの要請を受けて戦闘に参加していました。

まとめ アクセス情報

 

所在地

東京都あきる野市戸倉328-1

 

交通機関でのアクセス

・JR五日市線【武蔵五日市駅】からバスに乗車し【戸倉】もしくは【西戸倉】で下車

・JR五日市線【武蔵五日市駅】徒歩約40分

 

車でのアクセス

圏央道【あきる野IC】

 

駐車場

光厳寺近くに駐車スペース有り

 

時間

24時間開放しています。ですが夜は明かりが無く、大変危険ですので昼間に見学することをおすすめします。

 

※くれぐれも他の登山者の方のご迷惑にならないようにしましょう。