もくじ
「虎狩り」のイメージが強い清正の真の姿とは?築城名人の理由
加藤清正は、「築城名人」の名声を獲得していました。
虎狩りから勇猛な武将のイメージが濃いですよね・・・
近年の研究によって、清正は石田三成に負けないほど算用や内政能力に卓越したことが明らかになっています。
本当の清正は豪放の面ではなく、きわめて繊細な用心深い一面をもっていました。
清正の人となりと、信長・秀吉といった天下人の城を間近で見てきた経験、そして実戦を重ねた「武辺(ぶへん)場数士(ばかずのし)」として身体に染み込んだ戦場体験が生かされています。
しかし、もう一つ重要な秘密がありました。
その秘密は、愛知県名古屋市の名古屋城に残っています。
名古屋城の大小天守台石垣は、慶長15年(1610)に清正が独自で築きあげました。
その天守台北東隅石には銘文があります。
例えば大守台東隅石の銘文は「加藤肥後守内小代下総」とあり、清正に4000石で仕えた重臣「小代親泰(しょうたいちかやす)」が、この石垣を積んだと示しています。
実務を担当した家臣の名を刻んだ銘文はほかになく、清正のみです。
清正は苦労を知り、その努力と成果を心から評価した清正の真っすぐで繊細な心情が伝わってきます。
それを徳川家の城の石垣に刻み込んだ驚くべき豪胆さです。
「士は己を知る者のために死す」といいます。
清正に仕えた家臣及び職人に至るまで、尽力を尽くし、清正のビジョンを実現する気持ちを共有したからこそ猛将にも、築城名人にもなったのです。
防御と出撃を第一に考えた「やりすぎ」「過剰」な最強の城
熊本城は、籠城するには最強の城です。「やりすぎ」「過剰」といえます。
高石垣をいくえにも築き、大小天守のほかに城内に五階櫓を六塔も建てています。
本丸御殿に関しては、本丸を防御した空堀をまたいで建設しており、御殿床下の「暗がり通路」とは、空堀の上に御殿を建てたからできた通路です。
さらに熊本城の本丸から竹の丸に向けた城道には、途中に五重の外桝形を設けていました。
外桝形を連ねた例は稀で熊本城は守りだけではなく強力な出激拠点としても機能していました。
清正が「最強の城」として熊本城を築こうとしたからであり、清正の意思が結実した熊本城が、石垣や林立した櫓、複雑な出入り口などによって実現したことは明らかです。
ただしその分、城内の御殿や屋敷として使える有効スペースは、他の近世城郭と比べて著しく狭く、政庁としての機能性や居住機能は犠牲になっていました。
他の機能を犠牲にしてまでどうして清正が熊本城を強くしたのか「謎」です。
震災後の調査で判明した清正による施行跡と復興への願い
平成28年4月におきた「熊本地震」によって、熊本と周辺地域は甚大な被害を受けました。
「熊本城」の修復作業では、天守台直下のボーリング調査結果によると、小天守台の北側は、もともと大きく傾斜した地形で、清正がその傾斜に石垣を設けていたと判明しました。
清正はその傾斜と当初石垣を築き足したのです。
そうした地下構造であったために地震で小天守台石垣の北面、東面に集中して大きな崩れと変形が生じたと解析されています。
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写真は、今年6月にオープンした熊本城の特別見学通路から見た「二様の石垣」と大天守。バリアフリーを徹底した特別見学通路からは、これまで誰も見たことがない熊本城を満喫できます。そして本丸御殿の暗がり通路を経由して、本丸まで進めます。すごいでしょ熊本城。 pic.twitter.com/APj0VFjYhi
— 千田嘉博_城郭考古学 (@yoshi_nara) September 11, 2020
※【参考文献】
「歴史REAL 天下人の城」2017
株式会社 洋泉社
※写真および引用文
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