名古屋城築城~総合プロデューサー家康~町を移すから築城まで

 

【清州越】

山下氏勝の提案で清州から那古屋(名古屋)へ城下町の移転をします。慶長14年11月、家康は「名古屋遷府令」を発します。

 

清州は水攻めに弱く、那古屋は乾いた土地で海に近く東西の交通も開け、大軍を動かすのに都合がよい土地でした。

 

町割りでは、「基盤割り」が特徴であり、現在の名古屋の原型になります。

 

【縄張】

加藤清正・福島正則ら西国大名20家に普請(土木工事)を命令しました。これを天下普請といいます。

 

天守・櫓の作事(建築工事)は小堀遠州・中井正清らに命じられ、慶長17年(1612)にほぼ完成しました。

 

小さくても、隅っこにあっても、大きな存在感~隅櫓(すみやぐら)

 

攻めてくる敵の動きを監視した防戦、食量や武器を保管するために必要な建物でした。

 

現在は重要文化財に指定されています。

 

【東北隅櫓=丑寅櫓】

戦災で焼失してしまい、石垣の土台を残すのみです。構造は、東南・西南隅櫓と同じです。「落狭間」(石落とし)の個所が異なるだけです。

 

【西北隅櫓(清須櫓)=戌亥櫓】

御深井丸の西北隅に立つ三重三階です。清須城の小天守閣をここに移したといわれることから、清須櫓とも呼ばれています。

 

しかし、昭和37年から行われた解体修理で、そうでないことが判明します。現在の名古屋城でもっとも古い建物です。

 

【東南隅櫓=辰巳櫓】

外からは二重に見えますが、内部は三階構造の二重三階です。本丸の外側にあたる東・南二方面の「落狭間」(石落し)が特徴です。

 

 

【西南隅櫓=未申櫓】

東南櫓と同じ規模構造ですが、「落狭間」(石落とし)は本丸の外側、西・南に二方面にあり破風の匠も異なります。

 

名古屋理離宮時代の管理者、当時の宮内省が修理を施した際の名残として、鬼瓦に菊花紋が見られるのが特徴です。

 

金の純度88%…この輝きこそ名古屋の誇り金の鯱、家康のチカラの象徴

 

鯱ほこ』は火事を防ぐまじないとして室町前期頃から飾られるようになりました。

 

 

その後、城主の権力を示すシンボルになります。純度は88%、小判にして1万7975両に値します。

 

よみがえった豪華絢爛の本丸御殿は、初代尾張藩主義直の新居

 

初代藩主・義直の住まいとして御殿が完成したのは慶長20年(1615)です。同時に藩の政庁としても使われました。

 

しかし、元和6年(1620)に住まいと政庁の機能を二之丸の御殿舎へ移したことで、将軍上洛の際の宿舎=迎賓館になりました。

 

14年後、3代将軍家光の上洛に際して、新たに上洛殿や御湯殿書院などが増築され、豪華になりました。

 

内装は、日本絵師史上最大の画派「狩野派」の絵師により描かれた障壁画、さらに飾金具なども目もくらむばかりです。

 

 

残念なことに戦災で御殿は焼失してしまいましたが、襖絵や天井板絵などは取り外されていたために大切に保管されています。

 

今では復元がされ、優美な姿を公開しています。

 

名古屋城天守木造復元について名古屋が地元の筆者が考えてみる

 

現在の天守は1959年(昭和34)に鉄骨鉄筋コンクリート造で再現されました。

 

しかし現在、老朽化耐震性の確保などへの対応が不可欠になりました。

 

 

名古屋市は豊富な資料や実測図を使って、史実に忠実な木造復元を決定しています。

 

これらは、特別史跡名古屋城の本質的価値をより広く内外に発信するための目的があります。

 

 

しかし、現在の天守は当時の戦後からの復興のシンボルであり、多くの寄付のもとで造られました。

 

戦後の名古屋の象徴である2代目の名古屋城の建て替えには反対です。

 

史実に忠実に復元することも大切ですが、戦後の人々の思いを大切にしてほしいと思います。

 

参考文献『知れば知るほど好きになる 名古屋城』平成23年

名古屋城検定実行委員会編