不戦不焼の城にも三度の重大な危機到来~絶体絶命のピンチ!!

 

戊辰戦争

慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いで幕府方として参戦した姫路藩ですが、すぐに開城します。

 

姫路城』の焼失は免れました。

 

 

 

存城・廃城の決定

明治政府は、明治6年(1873)に陸軍省管轄下にある全国の城郭・陣屋のうち、残す城と廃城を決めました。

 

姫路城』は幸いに残す城となります。

 

 

太平洋戦争の戦禍

昭和16年(1941)太平洋戦争が勃発し、姫路の防空体制が緊急課題となりました。

 

なかでも姫路城大天守の城壁は目立つため、黒い擬装網が設置されました。

 

しかし、戦争末期の昭和20年6、7月の二度にわたる空襲により姫路の市街地は灰塵に帰しました。城は奇跡的にも生き残りました。

 

 

先人たちの惜しまぬ努力の結晶の姫路城の保存・修復工事至る歴史

 

江戸時代の保存工

大天守に行われた補強・補修工事は発見墨書などの軸部の補強修理が19回、屋根修理軒回り修理が17回を数えています。

 

 

明治の保存工事

明治6年(1873)存城が決まったものの、翌年には陸軍大阪鎮台の歩兵第十連隊が入城し、三の丸にあった建物は次々取り壊されていきました。

 

天守や櫓などは残されたものの、ひどいあり様でした。

 

この頃明治政府では、優れた城郭は保存する方針であり、それに沿って『姫路城』も保存は決まっていたと考えられています。

 

ところが、実際は予算が足りず、維持することさえ難しいありまさまでした。

 

 

明治41年(1908)には、姫路市民の間からも”姫路城を救え!”という市民運動が盛り上がり、「白鷺城保存期成同盟会」が結成されました。

 

国等へ強い要望が実を結び、明治43~44年によって本格的な保存修理工事が行われました。

 

 

昭和の大修理

昭和9年(1934)6月20日、豪雨のため西の丸の櫓で石垣が崩壊する事故が起きました。

 

昭和10年2月から復旧工事が進められる中で昭和10年8月に雨で再び石垣が崩れました。

 

このため、国は修理計画を改め、西の丸全体の修理工事を国の直轄方式で実施することになりました。これが昭和の大修理の発端です。

 

修理工事が進むにつれ、『姫路城』の危険性を知らしめることとなり、昭和11年から翌年にかけて文部省保存課による大天守以下の破損調査が実施され、指定建造物の詳細な現状記録が作成されました。

 

調査をもとに修理されるも、太平戦争で昭和19年度から一時期中断されました。

 

戦後、昭和25~30年度の第一次6カ年計画、昭和31~39年度の第二次8カ年計画の解体修理が行われ、大修理が完成しました。

 

日本で初めて世界遺産(世界文化遺産)になった姫路城の価値とは

 

平成5年(1993)に『姫路城』が文化遺産として世界遺産に日本初で認定されました。

 

姫路城』が世界遺産に認定されたのは、その美的完成度が日本の木造建築の最高の位置にあり、世界的にも他にない優れたものであることです。

 

また、17世紀初頭の城郭建築の最盛期に、天守群を中心に、櫓、門、土塀等の建造物や石垣、堀などの土木建造物が良好に保存され、防御に工夫した日本独自の城郭の構成を最もよく示した城であることなどが評価されました。

 

現代の美しい『姫路城』は先人たちの惜しまぬ努力の結晶であった功績だと思います。

 

今回は「修復・保存」の観点から姫路城を見つめました。

 

あなたにも『姫路城』へきた際は、この記事の内容を思い返してほしいです。

 

 

《参考文献》

『世界文化遺産・国宝 姫路城の基礎知識』平成28年

姫路市立城郭研究室

 

 

【P.S】

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