藤堂高虎が築城、伊達家歴代の居城となった『伊予・宇和島城』とは…

 

こちらの城を訪れたのは、2016年7月頃になります。

 

というのも当時は全国の城巡りをしていて、全国各地の「現存天守閣」及び、「100名城」巡りをしていました。

 

今回ご紹介するお城は、東経132度33分に位置して、現存天守閣としては、国内最西端である『宇和島城』です。

 

全国12城の現存天守閣を所持する城のうち、愛媛県には宇和島城を含む2城あります。(ちなみに、もう一つは平山の上に存在する伊予松山城

 

 

 

 

宇和島城』のはじまりは古く、みなさんが中学生の社会科の授業で習ったであろう941年”藤原純友の乱”にまでさかのぼります。

 

鎌倉時代の西園寺公経(さいおんじきんつね)、安土桃山時代の家藤監物(いえふじけんもつ)、天正13(1585年)持田右京(城代)や戸田与左衛門(城代)を経て、文禄4年(1595年)に藤堂高虎が宇和郡7万石を拝領し入城、翌年以降に城の建造を開始します。

 

ここでこの”高虎の歴史”を語り出すと、とてつもなく長い記述になってしまいますので、ここでは割愛させて頂きます(笑)が、この高虎が入るまでこの城は城主がコロコロと変わっていました。

 

 

宇和島の地は四国地方の大名にとっては要衝地(「敵が攻め来るのを防ぐ要害の場所」の意)でありました。

 

温暖な日本海流に恵まれ漁場としても利用でき、下関海峡を通る船の監視、瀬戸内海への運航など、戦国時代には讃岐の細川氏、周防の大内氏、九州では大友氏など数々の有名氏族が領土獲得を望んでいました。

 

 

築城の名手・藤堂高虎の設計「空角の経始」が見事な『宇和島城』

 

宇和島城』は中世期、太閤秀吉から伊予7万石を与えられた藤堂高虎によって整備されることになります。

 

 

五角形平面の縄張り「空角の経始(あきかくのなわ)」は、四角形平面の城と錯覚させるという藤堂高虎の発想のもと、築かれたものです。

 

これは城を守るという作戦上もっとも効果が発揮できるものであり、この当時の築城術でこのようなカラクリを用いた城は他にはありませんでした。

 

高虎が”築城の名手”と言われる所以でしょうか。現在の『宇和島城』の基盤を造ったのは、紛れもなく”藤堂高虎”です。

 

独眼竜・伊達政宗の子孫が歴代治めた『伊予・宇和島城』の歴史

 

現在の『宇和島城』の天守閣は、天守閣前にある石碑にも記されている通り、東北地方の独眼竜の異名を持つ伊達政宗までさかのぼります。

 

宇和島伊達氏により現在の天守閣は造られた訳ですが、宇和島伊達氏の始まりは伊達政宗と側室(新造)の間に生まれた秀宗になります。

 

ちなみに、秀宗の幼少期の名前は、「兵五郎」だそうです…。

 

 

当時は、東北伊達氏の家督後継者として大事に育てられますが、天下人秀吉と伊達政宗との取り繕いの結果、秀吉への人質として送り出されてしまいます。

 

そのため、秀宗は幼いころは、秀吉の息子である秀頼の遊び相手役でありました。

 

そんな中、秀吉が滅してしまい、”関ヶ原の戦い(1600年)”の後、みなさんご存知の”大阪冬の陣(1614年)”が起こります。

 

 

「大阪冬の陣」の際には、政宗・秀宗は徳川側として参戦。もちろん、大阪の冬の陣では徳川方が勝利しますので、伊達氏の行方は予想できますよね…。

 

当時幕府領であった宇和島群10万石が秀宗に与えられることとなりました。

 

そののち慶弔20年(1650年)3月に秀宗は入城して、本格的に宇和島伊達氏が誕生します。

 

国指定重要文化財『伊予・宇和島城』の紀行を終えて…~まとめ~

 

【入口から天守閣までの道のり】

入口の写真です。

 

営業時間を下記に記します。

《開門》3月~10月/6時~18時30分

11月~2月/6時~17時

 

《天守》3月~10月/9時~17時

11月~2月/9時~16時

 

※私が入場した時間は、18時頃でしたので、夕日を見ることができました。

 

 

 

天守閣へつながる石段…。なかなかハードでした。

登り切ったときには、息が多少切れていました。

 

登り切った先に見えた、夕日と天守閣のマッチは2年以上経った今でも忘れることができません。