もくじ
安土城跡は、なぜ「城跡」と称されるようにたったのかを見てみよう
みなさんも一度は耳にしたことがあるであろう「城跡」。
「城跡」とは、書いて字の如く”城の跡地”のことです。城の跡地ということは、現在はお城が存在しません。
戦国時代に敗れて城を奪われ資材のために壊されたお城や、江戸時代の一国一城令により廃城となったお城や、第二次世界大戦により焼き払われて焼失したお城など、全国には数多くの城跡があります。
中でも、「安土城」は16世紀の天下人であった織田信長によって建てられました。しかし、重臣明智光秀の謀反(本能寺の変)により安土城が焼き払われ、現在は城跡として登録されています。
滋賀県 安土城址 摠見寺 襖絵 pic.twitter.com/UMJ5AON38K
— さとchan (@Hirokisatohot) 2019年1月20日
安土城跡を訪れる前に、織田信長についての基礎知識を押さえよう
まずは、織田信長です。
日本の小学校、中学校を卒業した人なら、織田信長の名前を聞いたことがない人は、きっといないでしょう。
信長は、尾張の那古野城に生まれ、幼いころは好奇心旺盛で、日常的に奇行に堪えない子どもであったため「尾張の大うつけ」と呼ばれていました。
そんな大うつけ者ですが、父信秀の後を継ぎ織田家の家督を継いだ後に、尾張の地方領主となります。
豊明市の沓掛城に寄ってみました。
桶狭間の戦いの前夜、今川義元が入城し織田攻撃の準備をした城と伝えられています。公園として整備されていますが、諏訪曲輪や空堀が残っています。 pic.twitter.com/4RCXti1HUd— Yasu (@Yasu80385526) 2019年5月5日
当主となった後は、まず隣国駿河国の戦国大名今川義元(計2.5万軍)に、たった3000軍で打ち勝ってしまいます。
この戦いで全国に名前を知らしめた信長は、全国統一へ歩むことになります。
天下人織田信長が、近江国に安土城を建てたのは一体なぜなのか
先ほども記した通り、信長は全国統一事業を始めるにあたり居城については、大変関心を持っておりました。
そのため、信長は生涯でたくさんの城に入城しております。
中でも有名な城は、那古野城、岐阜城、小牧山城、清州城といったところでしょうか。
清須会議で有名な清州城https://t.co/M7hZbsFPY0
— 武楽衆 (@murakushu) 2019年4月25日
信長は、全国統一にあたり、少しでも政治の中心地「京都」に近い立地に城を設けようと思っておられました。
当時の政治の実権は、京都の室町幕府であり、権力を持っている天皇の御所も京都にあったためです。
そのため、信長はそれまで居城としていた岐阜城から、安土城へと移り住む決心をしました。
時間押しまくり〜
安土城址。 pic.twitter.com/3dFAaRdviH— BONー2 (@bon_two) 2017年5月5日
実際に「安土城」を訪れた感想を写真とともにご覧ください♪
安土城は、標高約200mの小高い山に天守閣があったため、天守閣にたどり着くまでに、たくさんの石段を登ることになります。
その数は、なんと410段!石段のも、現在の階段とは違い、段差がまちまちであるため、非常に上りづらいです。
安土城址です。着いたのは3時頃。
石垣と階段だけですが、
実際に登ってみると、壮大な城のスケールが良くわかります。国中から石を集めたようですが、
2枚目の写真は石仏が階段の一部になっています。
ためらいもなく石段にするとは、さすがですね😃
(続く) pic.twitter.com/FWpvlUFzET— たき (@suzuran_taki) 2018年9月16日
しかし、このような登りづらさが敵陣から守る仕組みでありました。そのため、安土城では入城後に、無料で木の杖をお借りすることができます。
平城の天守閣とは違い、200mを登り切り、体力を消耗した後に訪れる天守閣なので、到達した際には小さな達成感を味わうことができます。
※天守閣跡地
素敵な写真と色々のご紹介、
ありがとうございます。
大変勉強になりました。
コメントありがとうございました。
素敵な記事があってこそ、写真も生きるのだと思います。
これからも素晴らしい記事のご提供をお願い致します。